増富歴史探検隊
▲実際にホームページを製作している6年生。
私たち6年生は,「増富歴史探検隊」という名前をつけ、歴史学習の発展として、総合(みずがき)の時間も使いながら、自分たちが暮らしている増富という地域を調べてきました。「増富歴史探検隊」授業の様子
 北杜市須玉町にある、「須玉歴史資料館」に行ったり、地域の歴史にくわしい小沢和男さんを先生として招いたり、身延町の「湯之奥金山博物館」の、学芸員の小松美鈴さんに「出張博物館」を開いてもらったり、地域ののろし研究会の人たちを招いて、のろしを実際に上げてみるなどの、体験活動もしてきました。
 いろいろな活動を進めながら、私たちの住んでいる増富について、調べたことをここにホームページとして発表することができました。皆さん、私たちの調べた結果をじっくり見て、私たちの住む増富を知るとともに、ぜひ感想を送ってください。
▼「増富歴史探検隊」は次のページから構成されています。
増富歴史探検隊 (授業の様子)
増富歴史探検隊調査発表その1 (児童が作成したページ)
増富歴史探検隊調査発表その2 (児童が作成したページ)
増富歴史探検隊調査発表その3 (担任が作成したページ)
増富歴史探検隊体験編「のろしを上げてみよう」 (児童が作成したページ)
増富歴史探検隊体験編「砂金採り特集」 (児童が作成したページ)
増富歴史探検隊体験編「金山を探検しよう」 (担任が作成したページ)
弘法栗(こうぼうくり)
▲御門(みかど)地区 ▲御門の栗林
▲児童の描いたイラスト
昔々のある日、弘法大師が旅僧として諸国遍歴の途中、御門に来た時の話です。
高い高い木に子どもが登り栗の実を落とし、下で集める数人の子ども達もいました。空腹で来た旅の僧が栗の実を所望すると、子ども達は高い木に登り、怖いことなど忘れ、一生懸命に栗の実を落とし集めて気持ちよく、食べるように進めました。旅の僧は喜んで食べ、満腹になりました。
親切にした子供達にお礼と言って、そばにあった小さな栗の木をなでて「来年からは高い木に登らなくても栗の実が採れるよ。」と言って立ち去っていきました。
その栗の木は、次の年から子ども達の、背丈位の木に成長し実もつきました。イガの中には、一粒の大きな実のまわりを手で包むように、実の入らない『シャクシ』が包み、大粒の栗がなる様になりました。
その時の旅の僧こそ弘法大師であったといわれています。村人はその栗を『弘法栗』と呼ぶようになり、今もそう呼んでいます。
旅の高僧に対し親切にした者は、子孫繁栄 が授けられるということで、村人は集まり相談して「報恩謝徳あれ。」と、村中、力を合わせて正徳寺西上の所に太師堂を建て参拝しました。今でも年に一度はお祭りをして、その徳を偲び感謝の誠を捧げています。
弘法水(こうぼうすい)
▲児童が描いたイラスト ▲御門にある湧水
昔々のある日、弘法大師が諸国遍歴の途中、御門に立ち寄った時の話です。
その日は、夏の暑い日でした。僧は長旅と折からの暑さで、のどがからからに渇いていました。
一軒の農家の庭先で、女の人が洗濯をしていたので、僧は一杯の水を所望した所、その女の人は、心よく遠い所まで行って冷たい水を運んできて僧に差し上げました。僧は大変喜んでお礼に独鈷を地面に突き刺しました。すると、どうした事かそこから冷たいキレイな水がわき出してきました。
地元の人は、いつかこの水を『弘法水』と呼ぶ様になり、今でもこの水はわき続けています。
黒森番所跡(くろもりばんしょあと)
▲ちご石
黒森番所跡とは、昔黒森にあった番所のことです。
武田信玄は、信州往還の重要拠点として黒森地内に番所を設けました。番所は今の大熊荘の前で大石が右に番所が左にありました。この大石を「ちご石」といいます。なぜ「ちご石」と呼ぶようになったかというと、関守が稚児さんと言う偉い役人で、馬に乗るときこの石を台にしたところから「ちご石」と言われるようになりました。今は、番所はなく「ちご石」だけが残っています。
八幡山鉱山(はちまんやまこうざん)
▲金峰山から見た八幡山
江戸時代から知られていた水晶の産地です。みずがき号と称される562sの大水晶を産出しています。大きく無色透明で光沢の美しい水晶がとれました。
いぼ石(いぼいし)
 ▲日向(ひなた)地区
昔、日向のおくの所に大きな石がありました。
その石の上の方がへこんでいて、いつもそこには水がたまっていました。この様に水のたまる石は、珍しかったそうです。そしてその水を「いぼ」につけるとなんと!!その「いぼ」が、治ったそうなのです。そこから『いぼ石』と呼ばれる様になりました。今は道路になっていますが、その場所を『いぼ石』と呼んでいます。
神様の水(かみさまのみず)
▲旧増富中学校 ▲天狗山
神戸の西の方、旧増富中学校の校庭の前方に「天狗山」(土地の人は、おてんごう山と呼ぶそうです)という名前の山がありました。
天狗山の頂上には、いくつかの神様が祀られていますが、その中に大天狗・小天狗を祀っている西山社があります。
西山社のご神木である松の大木の幹には、天然のほこらがありました。そこには、四季を通じて水が溜まっていました。
そこで土地の人達は、『神様の水』としていつもこの水をあがめていました。干害で困っている時、この水をくみ取ってお祈りをしたところ、不思議と雨が降ってきたそうです。
今でも雨乞いの水として、この水は珍重され、あがめられています。
比志の城山(ひしのじょうやま)
▲比志の城山 ▲比志地区
徳泉寺の裏の方にある山で頂上は平らになっています。今は、秋葉神社の社殿があります。武田氏が村上氏や上杉氏と戦った時の連絡方法としてのろしを使いました。この山もそののろし台の一つといわれています。川中島より甲府・府中までの情報連絡に約半刻(1時間)を要したそうです。
比志神社(ひしじんじゃ)
▲比志神社
比志神社の創立と沿革ははっきりしていませんが、『三代実録』に名の見える古社で、蔵王権現あるいは比志権現とも呼ばれてきました。
覆屋の中に保護されている現本殿は、棟札によって大永(1528年)の建立であることが知られています。
比志の大師堂(ひしのたいしどう)
▲比志の大師堂
天文5年(1536年)武田信玄公の家臣の日向大和守兼繁という人が祈願所を始め、弘法大師の像を紀州高野山から移してきたといわれています。弘法大師の像は、当初徳泉寺に祀られていましたが、徳泉寺が真言宗から曹洞宗に変わったため、今のお堂に移して祀るようになったそうです。
日影の十王(ひかげのじゅうおう)
▲児童が描いたイラスト。
十王とは平安時代後期から伝来し、その後全国的に広まりました。人間が死んでしまうと、あの世で十人の王に生きていたときの罪を裁かれます。そのため、祖先の人たちは自分の罪を恐れ、善いことをして、生前から十王に祈りを捧げていました。ちなみに、十王の裁判の分担は、初七日・四十九日が7王で、百ヶ月・一周忌・三回忌が3王です。四十九日の担当が閻魔大王です。その十王堂が、日影の三大名木、楢の木の下に祭られています。近年、田を掘り返したとき、お堂の跡が発見され、そこからは、五重塔や多くの石仏が発見されました。そのため、現在もその近くの地名を十王堂と呼んでいます。
増富歴史地図
参考文献
『須玉町誌』山梨県北巨摩郡須玉町役場
『須玉町史』通史編第1巻、資料編第1巻・須玉町史編纂委員会
『増富のむかしばなし』増富地区公民館
『増富遺跡群調査現地説明会資料』須玉町史編纂委員会
『日本百名山』深田久弥
資料考証
小沢和男さん(北杜市須玉町比志在住)
藤原松子さん(北杜市須玉町黒森在住)
このページは6年生の児童が製作したページです。ぜひ、ご意見ご感想をお寄せください
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公開日2005-10-12